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団塊ジジイになりました。でも、いまがいちばん楽しい。

○○で子どもの成長を見守ります。それ行け シニアライフ

〜ファイナル公演へと立ち向かう松本白鸚〜 NEW!

 2022年2月に上演されるミュージカル『ラ・マンチャの男』の“特別発表記念会見”が12月16日に行われた。主演・演出の松本白鸚、アルドンザ役の松たか子、東宝の池田篤郎常務が出席した。

 『ラ・マンチャの男』は世界のミュージカル史上、傑出した名作だ。セルバンテス、ドン・キホーテを演じる白鸚は28日の大千秋楽で上演回数が1332回となる。そしてこの公演が最後である。

 26歳の6代目市川染五郎として1969(昭和52年)に初演し、翌年にはブロードウェイで英語で主演。9代目松本幸四郎時代、70歳で1200回上演を迎え、2代目松本白鸚となった77歳の2019年には日本初演50周年、1300回を達成した。3回の俳優名のそれぞれの時期に日本のミュージカル史上の記録を塗り替え、新たな伝説を作り出してきた。歌舞伎で『勧進帳』の弁慶、ミュージカルの“ラ・マンチャ”はこの人の代名詞、誇らしい俳優歴と言えよう。

 渋いスーツ、ネクタイ姿で会見に現れた白鸚はまず一礼し、立ってマイクを持ち「松本白鸚でございます」と口を開いた。「とにかく感無量でございます」「皆さんにご迷惑をかけないよう、無事に勤めたい」「家族、友人、兄弟たちのおかげ、幸せ者でございます」。79歳となっても今、持ち前の口跡の良さ、「見果てぬ夢」を追い続けてきた気骨、精神力、老いを見せずに話す姿勢は健在そのものだ。

 初演から53年目となる。長く、苦しく、一方で喜びもあった道程には我々の想像も出来ない出来事や思い出が隙間なく詰まっているのだろう。菊田一夫、父の先代白鸚によって実現した名作への挑戦を感謝しながら平幹二朗、越路吹雪がやりたかったという秘話、2019年10月の帝劇公演が最後と思っていたところ、現在のコロナ禍で東宝、松竹が自分を押し出してくれて、この日まで来たことへの驚きも口にした。

 「作品のテーマ、俳優白鸚が一緒になって、あるべき姿を追う、それを失わないようにやってきた。奇跡だと思っています。感謝の心だけです。嬉しい」。実弟の中村吉右衛門が亡くなったことへの気持ちも質問されたが「たった一人の弟ですから…。でも、いつまでも悲しみに浸ってはいられませんから乗り越えて、撥ねつけていかないと」。

 そして、いよいよ28日がやって来る。

 「この後はもぬけの殻でしょうね。先をしばらく考える気持ちも起こらないでしょう。迷うことなく、きょうが、これが夢でございます。たかが芝居、されど芝居だと思いました」。ファイナル公演へと立ち向かう奇跡の歌舞伎役者、ミュージカル俳優、2代目松本白鸚の心意気であった。

    (令和3年12月31日)

〜吉右衛門の死去に思いをはせると〜 

 中村吉右衛門が逝ってしまった。

 最後の舞台となった今年3月の歌舞伎座「三月大歌舞伎」に出演したのは『楼門五三桐』の石川五右衛門。最初は5日に見て、16日の二回目も目を凝らした。

 名台詞の「絶景かな」について筋書きで「楼門に潜んでいながら、景色を楽しむのは気持ちに余裕がなくてはなりません。コロナ禍の中ですが、私も自分を見つめ、律する余裕がないといけないと考えています。建物は有形ですが、歌舞伎は無形。受け継いで後世に残していきたいと思っております」と語っていた。

 久しぶりの舞台復帰であり、5日はやや精彩に欠けていたと見えたものの、16日はさすがに時代物の第一人者だ。「絶景かな」を「ぜっ(間)けい(間)かな!」の音量といい、歌舞伎座の舞台を圧する大きな姿にひと安心した。

 実はこの日、関係者から、その公演中、吉右衛門は自宅の自分の部屋の壁に「楽まで頑張る」と書いた紙を貼って毎日眺めている、と聞いていた。しかし、その千秋楽前日に病に倒れたのである。

 当方は、連日、播磨屋不在となった寂寥感に襲われている。また、なぜか同時に、今後の歌舞伎の行く末も念頭に浮かぶ。

 播磨屋一門の俳優はどうなるのだろう。将来、中村又五郎が中心になるのか、松本幸四郎、尾上菊之助たちが支えていくのだろうか。そしてー。

 やがて行われる十三代目市川團十郎襲名興行の口上はどのような風景になるのだ? 十二代目團十郎、勘三郎、三津五郎、坂田藤十郎、片岡秀太郎…と、この近年で大看板が亡くなっている。そしてー、吉右衛門。「ああ」。ため息ばかり、ついている。

    (令和3年12月8日)

〜尾上菊五郎、文化勲章〜 

 尾上菊五郎が文化勲章を授賞した。おめでとうござんす。良かった。でも、もっと早い時期に選ばれれば良かった、と思ったが会見では東京五輪開催の年であり、金メダルを頂いた気持ちーと語った。なるほどねえ。

 コロナ禍で公演中止、あるいは上演形態の変容で出演が激減した歌舞伎俳優にとって厳しいこの2年間、耐え抜いてきた俳優、スタッフらへのご褒美という思いを込めたのだろう。

 そして菊五郎は歌舞伎演劇の独特な形式美、粋、色気、艶、愛嬌といった江戸っ子気質をこれからももっと研究したいとも語った。この七代目菊五郎は世話物の第一人者である。世話物は粋が命だ。さて、江戸っ子の粋とは何だろう。

 菊五郎の“粋”とは?

 私はこう考えている。気っ風の良さ、潔いこと、懸命であること、一筋道。菊五郎という役者の粋とは、以上の要素を合わせ持ち、それを演技として表現するのだと。

 髪結新三、魚屋宗五郎、弁天小僧は十八番で代表する役だ。祖父六代目菊五郎、父七代目梅幸の芸を研究し、二代目松緑、十七代目羽左衛門ら菊五郎劇団の大先輩から厳しく、細かく教えを受けた。

 七代目を誰にするか、候補者は6人とも7人とも推測された。その中から青年俳優菊之助に白羽の矢が立った。父梅幸が六代目菊五郎の養子という背景も大きいが、実子の九朗右衛門も候補の一人だったのである。だが、重鎮たちは当時、人気が急上昇だった菊之助が将来、必ず大成することを見抜き、挙って推したのである。

 恒例の国立劇場初春公演で復活狂言がかかるが、深夜まで、あるいは翌朝まで密かに一人、部屋に籠もって膨大な台詞を覚え、役の研究する姿を純子夫人は知っている。コロナ禍の前、楽屋訪問をすると「よう、面白いことはないか?」と切り出し、二人で煙草を燻らせたものだ。夫人からは「煙草をや止めるように言ってよ」と催促されたが、それは無理。当方も止めないからだ。

 人間国宝に選ばれた後、名古屋の公演がはねてから私を誘い寿司屋で食事して、夜の街へ。初めて入った店へ何件もハシゴするのに付き合った。「国宝さんなのだから、そんなことしていいんですか」。クラブの女性に○○(書けないな)するから驚いたものだ。しかし、それが七代目菊五郎、七十九歳。

 六代目は「まだ足りぬ 踊り踊りて あの世まで」と詠んだ。さしずめ七代目は「まだ足りぬ (芸に)遊んで(浮世に)遊びて あの世まで」か。

 文化勲章を授賞し、頂点を極めたが、菊五郎は生涯、菊五郎なのである。

  しかし、  (令和3年11月1日)

〜「アニー」の衝撃初日〜 

 3度目の緊急事態宣言が相次いだ演劇界。最も気の毒というか悲しいケースはミュージカル『アニー』ではないか。コロナ禍によって昨年、全公演が中止となり、東京・新国立劇場で4月24日から5月10日まで、1年越しの待望の上演だったのである。ところが…。

 宣言発出を受けて、25日からの公演が出来なくなってしまった。わずか24日のみ、昼夜2回の公演がどうにか幕を開けることが出来た。つまり、24日初日、そして千秋楽。こんなことって、ある? 初日が千秋楽だなんて悲劇だ。

 その2回公演の午後の部を見た。最後の最後だった。

 そのカーテンコールが感動的。というよりも衝撃的、驚く場面に居合わせたのである。

 オリバー・ウオーバックス役の藤本隆宏、ハニガン役のマルシア、グレースの笠松はる、ルースターの栗山航、リリーの河西智美。そして主演アニーでダブルキャストの荒井美虹、徳山しずく。さらに出演者全員も舞台中央で2列に並び、列を前後に交代し直して挨拶。場内の空気は異常としか言えない。悲しさ、悔しさ、出番を終えたばかりの興奮。観客も舞台の雰囲気を共有していた。

 マルシアは泣いていた。女優陣も泣いていた。孤児院の子供たち、ダンスキッズの子供たちも同じだ。藤本が「もうご存知かと思いますが、きょうが初日で千秋楽となってしまいました」と口を開くと、泣く声が客席にまで届いた。それでも、マルシアを始め挨拶をする出演者は、1日だけでも舞台に立てた喜びを語った。

 さらに、感心したと言うか、ビックリしたのはアニーの美虹ちゃんもしずくちゃんも何と笑顔なのである。厳しく、長かった猛烈な稽古を体験した上に演技で緊張し、プレッシャーを感じなかった訳ではないだろうに。笑いながら、1日だけ、いや2人は1回だけの舞台に嬉しいと、挨拶していた。

 初演は1986(昭和61年)、青山劇場で4月26日から5月24日。思い出すのはその公演に当たり、記者懇親会が開かれ、集まった記者の中でいささか懸念する意見が出たのである。「今の時代、孤児院といっても真に理解できるのだろうか」。物語の舞台が大恐慌の時世だった1933(昭和8年)のアメリカ・ニューヨーク。ブロードウェイの初演が1977年。当時の日本は不況でもなく、孤児の子供たちが主役のミュージカルがヒットするか、疑問視する見方も確かにあった。

 だが、作品は見事に大成功。1986年の第2回公演を前に、ニューヨークでキャンペーンを兼ねた取材旅行が行われた。私はそれに同行した。

 初演と同じ、アニー役の菅野志桜里とダブルキャストの初役・西部里菜、そしてグレース役の鳥居かほりが白馬が弾く馬車に乗って写真撮影をしたり、当時、「アイ・ラブ・ニューヨーク」キャンペーン中だったコッチ・ニューヨーク市長を庁舎に訪問し、アニー二人は市長の前で主題歌「トゥモロー」を歌うという快挙をやり遂げた。

 初演から36年目の今回。益々、拡大しているコロナ禍。感染症対応のため、90分の特別バージョンの上演となった。CMポスターを見て、迷い犬をサンディと呼ぶ場面、橋のたもとで貧しい人々と交流する場面、ニューディール政策を打ち出す会議の最中にルーズベルト大統領の前でアニーが「トゥモロー」を大声で歌うシーン、またラジオ番組に出演した時、背後に並んだCMガール3人の色っぽいスタイルなどが見られなかったのは、初演から見てきた私には残念至極だった。

  しかし、「朝が来れば、トゥモロー、いいことがある トゥモロー」と熱唱するアニーの明日を信じる心は見た人に伝わった、と思う。

 東京公演は終わったが、それでも夏の8月7日の松本公演を皮切りに仙台、大阪、名古屋での公演へと続く。いつか完全上演が出来る日を待ちたい。

 (令和3年4月28日)

〜志村けんは団塊世代のスター〜 

 岡江久美子が亡くなった。新型コロナウイルス感染による肺炎だった。63歳とは早過ぎる。この訃報に当たり、つくづくと思いだすショックが志村けんの急逝だ。

 彼は、白塗りのバカ殿様とかアイーンといつた一発芸のコントなどに才能を発揮。コントにこだわり続けたのが追悼の言葉に多いようだ。その通りだが、私の場合の衝撃はコメディアン志村けんの死だけではない。喜劇俳優志村けんの死を加えたい。

 『志村魂』という公演を明治座で続けていた。その座長として抜群のコントを生の舞台で披露していた。そして重要なのはもう一つのパートで芝居を上演していた。それは松竹新喜劇の名作を演じていたことだ。

 昭和の喜劇王、藤山寛美が笑わせていた役を彼は積極的に取り上げた。私はザ・ドリフタースの一員で活躍していた頃から考え始め、一人立ちしてからは彼の座長公演をぜひ新宿コマ劇場で打って欲しいと願っていた。関係者からは否定的な声が多数だった。しかしそれが、『志村魂』で実現したのが嬉しかった。

 松竹新喜劇の名作に挑んだのにも、驚いた。その舞台での演技はコントとは違う俳優としての喜劇のセンスを見せつけていた。天才寛美のまさに天才的な間合いのセンスには及ばないが、全身から伝える可笑しさ、共演相手との間で起こす面白さが実にスピーディに表現されていたのである。それが才能というものである。

 70歳での急死。影響力が素晴らしかった団塊世代が生んだスター。三木のり平以来の東京喜劇を体現できたのに、残念至極だ。滋味が増した俳優となれただろうに。国民栄誉賞を挙げたい。

   (令和2年4月28日)

〜演劇界を襲ったコロナウイルス〜 

 演劇界に大激震が襲った。新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、次々と公演が中止や延期に追い込まれた“新型ウイルス”被害である。

 3月17日に公表された舞台や音楽ライブの公演の損害額が推計450億円に上ったというのだ。それ以降もウイルス感染症は増大し続けているため中止・延期は止まっていない。

 演劇界の損害は私的に推計すれば3月22日時点で少なく見積もっても約110億円になった。3月初旬から観劇を予定していた公演の中止・延期の連絡が入り、その数は22日時点で30公演になった。

 歌舞伎座の「3月大歌舞伎」、国立劇場の「3月歌舞伎公演」、明治座の「3月花形歌舞伎」、また4月の「こんぴら歌舞伎芝居」までが中止となり、歌舞伎公演は全滅となってしまった。

 劇団四季は「アラジン」などのミュージカル公演、帝劇の「ショック」や宝塚歌劇の人気公演、あるいは国際フォーラム、シアターオーブといった大劇場での公演も甚大な被害を被ってしまった。関東地方のみならず京都・南座、大阪・松竹座も同様だった。

 例外的には小劇場、小劇団、プロデュース公演にしても何とか上演を続けた一部の頑張り屋さんも散見されたものの、全国レベルの損害を加えれば我が国の演劇界の3月は悲惨な状況である。

 さらにイベントに目を向ければ、鶴屋南北賞、松尾芸能賞の授賞式は中止か延期になり、5月から開幕する予定の13代市川團十郎襲名公演に向けた「祝う会」も延期となった。

 これら公演やイベントのために長く準備してきた稽古、製作・企画、あるいは投資、連絡、大道具・小道具、照明、衣装といった関連費用を加算するとなれば、損害額の推計は想像するさえ恐ろしい。

 演劇文化を殺してはダメだ。劇団の解散とか興行会社の減収による投資削減が心配される。自己努力だけでは挽回は困難。今後、現政権が演劇文化を支援するだろうか。民間に期待したい。トヨタ、ソフトバンク、楽天、キリン…。大企業が挙って支援して欲しい。そして、演劇人の奮起を見せつけよう。

   (令和2年3月24日)

〜『キャッツ』1万回に想う〜 

 劇団四季のロングランミュージカル『キャッツ』が3月12日、通算上演回数が1万回を達成した。今回の東京公演のために大井町に新設した仮設劇場キャッツシアターへいそいそと出かけた。胸に二つの想いを抱いて…。

 初演が1983年11月11日。西新宿のテント式仮設劇場であった。当時、紅テント、黒テント、白テントという小劇団、アングラ劇場の仮設公演は盛んだったものの四季の大規模なシアターを目のあたりにした時の驚きと興奮は今も生々しく覚えている。

 最初の想いはこうだ。

 1981年5月の英国ロンドン・ウエストエンドで世界初演された『キャッツ』は翌1982年11月に米国ニューヨーク・ブロードウエーのウインターガーデン劇場で幕を開けた。83年の日本初演に当たり、四季は、いや浅利慶太氏は専用ジェット機にマスコミを招待。ブロドウエー公演を観劇するためである。正確な日付はもはや記憶の彼方なのだか83年の春、あるいは前年の秋かもしれない。

 時差ボケの目をこすりながらソワレを見た。猫を演じる俳優が客席を走り回っていた事、圧倒的なダンス力、そしてラム・タム・タガーを演じた長身の男優の魅力的な風貌と歌とダンス。後にその俳優はブロードウエーでの『レ・ミゼラブル』の主役ジャベールを演じた実力派だと知ってビックリしたものである。専用機を借り切って多くのマスコミを同行させた浅利氏の度胸と発想力の凄さ。思えば劇団の存亡を賭け、失敗が許されない公演だったのである。

 もう一つの想いはその浅利氏である。

 浅利氏は昨年7月13日、85歳で世を去った。思い出は限りないが、『キャッツ』の日本初演の際に仮設劇場で公演の意味などを語っていた姿を忘れられない。淡々とした語り口ながら悲壮感とは言えないが、胸に熱い決意と情熱、後には引けない責務を含んだ内容だった。

 通算1万回の公演を、浅利氏の魂を探しながら見ていた。すると、舞台後方に光る月の中にその笑顔が映った気がした。もちろん、幻想だ。

 様々な猫の生き方が描かれる『キャッツ』の中で私が好きなのは芝居猫だ。栄光の過去を振り返り、話す2幕。

 「今の役者は許せない。ろくに稽古もしないで、スター気取りは許せない」。あるいは、思いを寄せるキュートなグリドルボーンへ「この胸のときめきが分かるだろう」と歌う恋心。老いさらばれて、楽屋口をうろつき、仲間に酒をふるまってもらう今…。

 また、美しかった昔の思い出を歌うもう一匹が娼婦猫グリザベラだ。

 「メモリー、月明かりの中、美しく去った過ぎし日を思う。忘れないその幸せの日々、思い出よ、還れ」−。

 浅利氏は、自ら育てたヒットミュージカル、そして若き俳優たちを見守っている笑顔が浮かんだのである。

 (平成31年3月21日)

〜浅利慶太さんのお別れ会〜 

七月十三日に八十五歳を限りに亡くなった劇団四季の演出家浅利慶太さんのお別れ会が九月十八日に帝国ホテルで開かれ、列席した。

 追悼文を新聞紙上で書いたように、会でも演劇界の巨星墜つ−の真情そのままの心境が胸を走った。

 30分間流れた名語録の映像を見つめながら心に刻まれた言葉がいくつかあった。

 「自分の生きた時代を忘れてはいけない。それをじっくり考えることです」。浅利さんは昭和八年に生を受け、戦争の最中に青春期を送り、平成三十年に死を迎えた。生きた時代とは、戦争体験と戦後復興期を主に示している。日本が戦に走り、負けた経験と歴史を決して忘れてはいけない。語り継げなければいけない。演劇の精神はそこにある。ギリシャ悲劇、シェイクスピアも河竹黙阿弥も全て大劇作家は自分が生きた時代に足場を置いて、書いた。そう語っていた。

 ミュージカル『李香蘭』を含む昭和の歴史三部作を世に出したのは執念であり、責務であり、遺言であった、と思う。「劇場で生きること」。演劇は全ての芸術に勝る、と確信し、自分をその場に置いて、決して逃げない。苦しく、辛くても居座る人生であった。それが至上の幸福だと語っていた。

 さらに、英国ではシェイクスピア劇の上演を観客には「ショー」を見せると言い、日本では例えば二代目尾上松緑が「きょうのご見物はいかがでしたか」と語りかけてくれたと経験を映像で話していた。二代目市川左団次を大叔父に持つ人らしく、ショーにしてもご見物にしても見せ物をお見せする、それが演劇であり、忘れてはいけない自身(劇団)の金言だと言うのである。

 生きた時代を劇場で芝居という見せ物をお客様に提示する。それが浅利慶太という演劇人の真骨頂だった。

 野村(浅利)玲子夫人が「人間が仲間が大好きだった」と挨拶したシーンも印象深く、全劇団員がミュージカル『コーラスライン』の中の『愛した日々に悔いはない』を立ち上がって大合唱したのも忘れがたい。

 最後に献花が始まり、最初にミュージカル『エビータ』の主題歌「共にいてアルゼンチーナ」が流れた。これが私にとって嬉しい瞬間だった。

 「嵐すさぶ日も 抱き合い 苦しみも分け合った仲間たち」。なぜか私はつい口ずさむ心地良い名曲だから、お別れ会を構成した劇団の演出に感動した。2曲目が『李香蘭』のテーマ曲。祖国を思い、自分の生きた時代を思う…。まるで浅利さん自身が演出したようなお別れ会。

 浅利さん、ありがとうございました。お疲れさまでした。そして、さようなら。遺影にそう語りかけて、1本の白薔薇を捧げた…。

 (平成30年10月1日)

〜割り込むな!〜 

これは、ぼやきではない。正直な本音だ。やっぱり、文句かもしれない。

 主にテレビ番組でのワイドショー、報道番組を見た感想である。

 最初がテレビ朝日「ワイドスクランブル」だ。キャスター橋本大二郎があるニュースへのコメントを呼びかけるか話しかけるようにしゃべると、横に座るフリーアナの大下容子は「そうですね」としか答えない。大半がこれだ。橋本のコメント自体が本人の単なる感想だから「そうですね」でいいかもしれないが、何とも味気ない。もっと前に出るか色を鮮明にした反応が出来ないのだろう。ジジイとしては、時代劇の再放送に戻してほしいから、むかつく。

 TBS「ひるおび」。これはまず恵俊彰。現場中継の時である。レポーターとの呼吸がまったく合わないのだ。せっかく、厳寒の現場や酷暑の場所から報告している最中なのに割り込むのだ。自分のどうでもいい感想とか意見とか疑問点をしゃべって割り込む時がやけに多い。従ってレポート内容が途切れ途切れになる。現場ではスタジオからの映像は分からないのだから、最後まで報告させろよ。長く続けてきた経験が無駄じゃないか。

 日本テレビ「スッキリ!!」はどうか。お天気予報士の松並健治が嫌だ。天気解説になると、余計な仕種を始めるのである。両手を伸び縮めさせたり、片手を上げたり、何かの形を作ったり。視聴者が集中しにくいのである。その点、藤富郷さんはいい。何ともシンプル。余計な動きはしない。自分を表現するのではなく、予報を伝えることを第一義としているのが分かる。天気予報士のお手本だ。

 フジテレビ「ユアタイム」のキャスターだった市川紗耶とアナウンサー野島卓とのコンビが嫌いだった。野島はニタニタ薄笑いを浮かべながらしゃべるし、市川はド素人のトンチンカンな質問ばかりだった。と、思っていたところ二人はなんと男女の関係だった、とは呆れたものだ。画面から消えて良かったよかった。

 ついでに最後っ屁。

 プロ野球の選手で誰が嫌いかと問われればそれはソフトバンクの内野手・松田宣治。本塁打を放ってベンチ前に戻り、「あつお!」と大声で叫ぶ姿が大嫌い。「熱男」というらしいが、なにが熱男だ。偉そうに、と思うのである。打たれた自チームの投手がやられたら、気分が悪いだろう。松田が3タコ、4タコの無安打の試合を新聞で確認すると私は「あつお!」と叫ぶのであった。

 (平成30年2月5日)

〜「ちょっと」への反発!〜 NEW!

 テレビを見ていてこのところ気になっている、というか、呆れている。それは何かというならば、「ちょっと」を表現する人が多いのである。

 報道番組で見ると町のインタビューの場合、安倍政権を「ちょっと危険だと思う」。そうか、ちょっとなんだ。大いに、かなりじゃないんだ。芸能人の不倫も「ちょっと問題でしょう」などと、完全否定していないと思える表現だ。一般人は実に「ちょっと」について特別な意味を込めているのではなく、合いの手というか軽い巻頭表現なのだろうが、真剣に受け止めた視聴者なら、やはり、「ちょっと」とはいらない表現だと感じてしまう。「危険だ」でいいのである。「問題でしょう」と言えばよいのだ。

 広辞苑によれば「ちょっと」にはほぼ八つの意味が書かれていた。

 @しばらく。「しばらく待って下さい」。

 A呼びかけ。「ちょっと、あなた」。

 B試みに。「やつてみる」。

 Cわずか。少し。「ちょっと、見ると」。

 Dかなり。「金がある」。

 Eほんのついでに。「寄ってみる」。

 F否定語を使って。「少々のことでは出来ない」。

 G一寸見。「ちょっと見ること」。

「ちょっぴり」では「少ないさま。わずか」とあり、Cと同様だろう。

 へそまがりとしては以前から「ら」抜きの言い方(表現)も気に食わなかった。「食べれない」ではなく「食べられない」だろう。CMで墓所へ「来れる」を連発する映像が流れているが、「来ることが出来る」でなくとも「来られる」がいい。

 まあ、「ら」抜きはともかく、「ちょっと」については評論家やコメンテイターさえ多用する言い方には我慢ならない。

 (平成30年2月5日)

〜青井陽治さんの死去について〜 

 翻訳家で演出家の青井陽治さんが9月1日亡くなった。予想外のその訃報に驚いた。

 私にとっては病死とは思えず、何か事故でも起きたかとさえ思えた。しかし、膵臓がんによる逝去だった。

 というのも何度となく顔を合わせていた今年は二人の大女優との交流についてとても貴重な話をしてくれたのを思い出したからである。

 2月には青井さんが選考委員をしていた読売演劇大賞の贈呈式で杉村春子のエピソードを、5月には劇団前進座の国立劇場公演で隣合わせた招待席で初代水谷八重子との交流を聞かせてくれたのだった。また、その5月には娘の当代水谷八重子が語り歌って母の初代を偲ぶイベントを演出していて、笑顔を見せていたからである。

 その後も招待日には劇場によく足を運んでいた。いつも開演直前に駆け込んできたのだが、リュックを背負い、両手には大きく膨らんだカバンやらバッグを重そうに持ち運んでいた。中には辞書やプログラム、参考書やパソコンを詰め込んでいたように見えた。とにかく勉強家なのである。

 顔を見合わせれば、ちょっぴりはにかんだような笑顔を返してくれた。麻実れいが素晴らしい女優であること、その理由、俳優としての劇団四季時代の話、その時、歌舞伎の中村歌六と一緒に学んでいたこと…。まだまだ楽しいエピソードを話して欲しかった。

 同時代に生きた演劇界の証人。残念無念、この一言である。

   (平成29年9月5日)

〜ちあきなおみを歌おう!〜 

 歌手ちあきなおみが70歳を迎える。昭和22年(1947年)9月17日に彼女は誕生した。

 引退をして沈黙を決め込む有名人はそう多くないだろう。原節子がそうだったし、山口百恵も同じだ。沈黙を守り続けるちあきなおみも数少ないその一人である。

 1992年に最愛の夫を亡くして以来、忽然として姿を隠して25年になる。

 彼女はドラマチックに歌い上げる歌手だった。「喝采」がある。「紅とんぼ」もある。「矢切りの渡し」もそうだ。「黄昏のビギン」や「冬隣」…。ハスキーな歌声は忘れ難い。

 −あなたは焼酎飲んでむせてますか。

 −カラオケで歌っているのですか。

 「想いだしてね、時々は」−。

 「紅とんぼ」を歌おう。ちあきなおみを歌おう! さあ、今からでもカラオケボックスへでも走り、そして歌おう。

  −と書いている当方も今年、古希になる。ご同輩は気になるのである。

 (平成29年7月21日)

〜青い鳥小鳥、なぜなぜ終わる〜 

 一通の封書が届いた。劇団・青い鳥からなので過日見た公演の礼状かと推測したところ、少し驚いた。

 『いつも私たちの小さな小さな劇場に足を運んでくださり、本当にありがとうございました。実は今回は43年間走り続けた私たちが、ここで、一区切りつけようと決めた最後の公演でした。これまで何度もご覧いただき本当にありがたかったです』。

 劇団解散の通知であった。

 『今回舞台上で演じながら、この劇団に入った頃の風景を思い出していました。そう、小さな小さな舞台から眺めた客席を。お客様の可愛らしい頭・頭・頭・。優しい笑い声や爆笑』。

 読みながら遠い昔を思い出してみた。

 女性だけ6人で旗揚げしたのは1975年。池袋小劇場の4Fホールという小さな小さな空間で『美しい雲のある幕の前』。彼女たちは若かったが、私も若かった。まだ二十歳代だったのだから。歌舞伎町のはずれのスナック「ジュネ」でバイトをしていた君たちの数人が劇団を作って旗揚げ公演をやるというので招待を受けて見た芝居はかすかな記憶はある。それでもへたくそな演技を上回る初々しい若さと、夢を叶えた輝くような美しさは忘れていない。

 『時が過ぎ、いろいろな劇団が生まれ、変化し、消えて行くという移り変わりの中、本当に青い鳥を観たいというお客様だけが残り、最後の、本当の最後の公演を迎えることができました。本当にありがとうございました』。

 2月23日、下北沢の小劇場B1で見た『普通の生活』の後、アフタートークが開かれ、今思えば解散を予知させる俳優の雰囲気はあった。演出の芹川藍が進行役を勤めて、青い鳥はあなたにとって何?とか、これだけ長く続けられたのをどう思う?といった質問をメンバーにぶつけていたのだ。

 『これまで「裕福」や「名声」の言葉と無縁で生きてきた私たちでしたが、形にならない宝物を多くのお客様から受け取らせていただきました。今日も「ありがとう」「公演、またやるんですよね!!」「よく頑張ったね」のメールや便りがどんどん届いています(プチ自慢してしまいました。すみません)』。

 俳優たちとほぼ同世代の女性たちが応援してきたグループだった。旗揚げから見続けてきた私は、彼女たちと同じ時間を共有しながら演劇の世界で生きてきた。同じ年月を経てきた、年を取ってきた舞台姿を見続けてきた。スナックのママ、とも子はどうしているだろう。創立メンバーだった木野花はどう思っているのだろう。

 『全公演を終えた数日後、演出家の芹川からのメールは「今…まるで大失恋をしたような気持ちだ」というものでした。私も同じ気持ちです。と同時に、芹川はこうも言っていました。「まだやれるよ!と言われているうちのアスリートの引退のように、終えていこう…」と』。

 そりゃあないぜフェーバーさん。何を言うんだウイシュボン(と、これは店の常連だった私の親友、ゲンナイの口癖!)。

 『これから…外の表現の場(映画・ドラマ・舞台の客演のチョイ役)で遠慮がちにたたずむ私たちを見かけたら、「ああ、悪戦苦闘しているんだなぁ…」と見守って下されば幸いです。もう少しもう少し頑張ってみます…外の表現の場で…本当にありがとうございました。…また…いつか…どこかで…』かしこ。

 3月17日付けの天衣織女の挨拶状だった。幸せの青い鳥を探しに旅に出た乙女たち。お疲れさん、頑張ったね、良くやった。舞台で演じていた杖を付いた姿を見かけたら、誘うよ。歌舞伎町で一杯やろうよ、市堂令、と。

 (平成29年3月27日)

〜さらば、パルコ劇場〜 

 「西武劇場〜パルコ劇場 ありがと、そして、さいなら」。東京は若者の街・渋谷のパルコ劇場が8月7日の上演を限りに閉場した。

 昭和48年(1973)の開場以来43年。建物の老朽化が主な理由による取り壊しを経て、約3年後の平成31年(2019)秋に建て替えとなる計画だ。

 前身の西武劇場で見た『ショーガール』。木の実ナナと細川俊之二人の粋でシャレたショーは1970年代当時の若者文化の最前線に立っていた。演出の福田陽一郎さんが客席を縦横に歩き回って、舞台の二人、スタッフに熱線を送り、叫びまくってダメ出しをしていた姿を思い出さずにはいられない。

 たくさんの思い出が残る。

 公園通りにはNHK放送センター、さらに小劇場の前衛・ジァンジァンが元気に公演をしていた。その間に建つ「パルコ」はファッション、レストランを始め流行を先取りした若者文化の発信地だったのは間違いない。

 恋文横丁のジャズ喫茶で恋を語り合い、ストリップ劇場近くのクラシック喫茶でモーツァルトを聴いて、劇場で芝居を見る。70年代の若者が粋がっていたものだ。

 劇団四季の翻訳劇、寺山修司、唐十郎の作品、英・米・仏・伊などヨーロッパの一流作家の上質な最新作を絶え間なく舞台にかけていた。井上ひさし作品が上演中止になり、高橋(関根)恵子が恋に走ってしまい、某若手有名女優が妊娠による舞台降板。当時の担当プロデューサーが「許せない。もうあんな女優は使うもんか!」と激怒したのも今は思い出である。

 この劇場の最高傑作は何だろう。三谷幸喜作品か、美輪明宏コンサートか。やっぱり『ショーガール』に尽きる(と、私の独断)。

 新たな建物は地上20階、地下3階。現在の延べ面積の1.5倍になるという。新パルコ劇場も少し規模が大きくなるそうだ。

 新開場は東京オリンピック開催の前年だ。生きていれば老骨にムチ打って、こけら落とし公演を見に行こう。『ショーガール』かなあ。美輪さんのコンサートかしら。再結成のSMAPもいいね。

 (平成28年8月12日)

〜モバイルはもはや公害だあ!〜 

 男は不細工、女は不器量(ブス)ばかりが目立つ−と見えるのは当方だけか。

 モバイル(携帯電話、アイフォンなど)に夢中な電車内の連中を眺め続けながら、それを発見した。歩きながら族、喫茶店、レストラン…どこでも同じ傾向だと思う。男女とも見た目だけの調査だが、数え切れない回数の結果だった。

 不細工とはご面相だけではなく、着用している姿・形、汚らしい髪形、座っている格好など全体の印象を含んでいる。不器量とはそのもの。男性と同様に、やはり仕種にも醜い人が多いのである。

 電車内では空いた席に突進し、他人はおかまいなし。老人も赤子連れも、体に不自由な人にも席を譲る気配さえ見せない有り様。

 大きく分けるとこの症状は三つになる。@馬鹿者A精神異常者B病気。病気とは依存症、あるいは中毒症だろう。

 友人、知人が少なく、人間関係が苦手なのだろうか。幼稚性から抜け出せないのか、ゲーム好き、ツイッター・ライン好き、または不安症か。それともまるで違うのは、情報収集のため、勉強目的、暇つぶし…。理由はそれぞれだろう。
 芝居見物では、電源を切らないから呼出し音が鳴ってしまう。上演中でもメール交信する。席を立って退場する。とにかく迷惑な人々がますます増えているのが現状だ。

 寺山修司は「書を捨てよう、街に出よう!」と言った。そこで。「モバイルを捨てよう、中毒症になる前に」。

 (平成27年7月13日)

〜「青い鳥」はなぜ若い?〜 

 思い出すなあ、劇団青い鳥の旗揚げ公演。メンバーの君たちは若かった、私とてまだ若かったあの日、あの頃。6人の女性だけで前年に創立した劇団の旗揚げが1975年。

 「美しい雲のある幕の前」を池袋小劇場4Fホールで上演したのだっけ。当時、新宿のミニバーでアルバイトをしていたメンバー数人から誘われて足を向けた。お世辞にも巧い演技とは言えなかった一方、ピカピカに光る若さ、勢い、目標を達成していく喜びが舞台に映えていたものだ。

 その40周年パラダイス、「ミクちゃん、お風呂の時間です。」を下北沢の小劇場B1で見た。東京公演は1月21日〜25日(大阪公演は2月5日〜8日)と短期間はいつもの通り。創立メンバーの芦川藍が主演・演出、天衣織女が戯曲を書いたが、例によって、ひと捻り加えた工夫があった。

 物語は父の葬儀のため実家に戻った次女が久しぶりに再会した母は認知症。会話はすれ違い、離婚を考えている娘との思い出話などがコメディチックに進む。で、工夫はその娘の役を当日の舞台上で、くじ引きで決めるもの。母親の芦川は最初の40分間、出ずっぱり、クジを引き当ててしまったのは創立メンバーの葛西佐紀。観客が笑い、頷く芝居を見せていた。

 今回の上演も「青い鳥」のオリジナルが満載だった。

 @狭い空間、少人数の客席A日常を描く。今回は脳卒中による認知症でリハビリセンターに居る母B意表を突く仕掛け。今回はくじ引きC今の時代の旬を取り入れる。今回はデーモン閣下の相撲の話などD音楽が流れる。今回はピンキーとキラーズの「恋の季節」などで踊るE遊び心。今回はなぜか突然、カルタ取りが始まる。なぜか台詞の尻取りが始まる。

 その結果、ほのぼのとした昭和の時代が重なって見えるし、働き者の昭和の母親が描き出されていた。

 旗揚げの時と比べれば、演技力は当然のように上達している。それでもヘタうま≠ニいうか、自然な芝居は素人ぽさの味わいをあえて出しているのが「青い鳥」の個性だろう。女性の持つ感性、感覚が満ちた戯曲と演技。40年を経ても彼女たちは可愛く、若々しいのはなぜだろう?

 白髪混じりの薄くなった頭を鏡で、我泣き濡れてジッと見つめた。

 (平成27年1月30日)

〜2度のキッス〜 

 「風」という演劇集団の公演を見た時の出来事である。

 上演作品は日仏の共同制作による「海との対話」で、フランス人俳優も出演していた。その中の一人、セリーヌ・リジェという女優に釘付けになった。

 公演初日なのでこの劇団恒例の初日乾杯にちょいとだけ顔を出した時の出来事である。

 乾杯も終わり、出口付近で劇団の俳優と雑談していると、先の女優が近くに来たので、つい呼んでもらった。英語さえ覚束ないジジイがフランス語など「アンテン・ドゥ」とか「ケスク・セ」や「ジュ・テーム」程度しか知識がないのに、つい魔が差したとか思えない挙に出たのである。
 
 紹介してもらい、握手を終えて、頭に乗ってしまった。

 「あなたはある時はカトリーヌ・ドヌーブのようで」「またある時はシルヴィ・ヴァルタンのようで」「そして、ある時はジャン・ルイ・ヴァローのようだった」と話し、通訳をしてもらったのである。

 実は、舞台を見ている間に頭をよぎった名前をそのまま伝えたのだった。知る限りの名を絞り出したのである。

 「つまり、実に美しく魅力的で」「チャーミングで」「身体能力が高い」と追い打ちで話し、通訳してもらった。と、どうだ。彼女は目を丸くして(これは本当にそう見えた!)満面の笑みを浮かべた瞬間、ミー(突然、英語)の方へ近寄り、何と、両頬にキッス(!)をしたのである。

 驚いたミーの顔ったらなかった(と、これは自分の想像)。

 キッスをしてくれた彼女は、別れ際にこう言った。「私は、あなたのことを決して忘れないわ」。これは通訳の話。

 で、会場から出た瞬間、驚くべき出来事が続いたのである。

 外にいた劇団の主宰者で演出家の浅野佳成氏が当方にいきなり近づき、何と、両頬にキッス(!)をしたのである。何という事だ。中年ジジイが、ミーの頬にである。

 驚いた当方の顔ったらなかった(と、これは周囲のスタッフらが笑っているのを見たので分かる)。

 生まれて初めてフランス人女優にキッスを受け、これは当分は洗顔しないゾとニヤついていた直後に、生まれて初めて男の、しかも中年ジジイの、演出家に同じ箇所にダブルキッスを受けるなんて。こんな悲しい出来事などあろうか。帰りの駅へ向かう途中、当然の如く、ハンカチで両頬を拭ったのである。

 ああ!風よ。舞い上がるような気分は、風とともに去りぬ。

 (平成26年9月19日)

〜蟹江敬三の死去〜 

 蟹江敬三が3月30日に亡くなり、4月2日に公表された。多くの俳優、芸能人が哀悼のコトバを話したが、演出家蜷川幸雄の文章を突然、思い出した。

 以下は平成3年2月5日の報知新聞に載った「劇的教育論」の一部。当時、当方は蜷川氏の連載を担当していたのだった。

 「石橋蓮司と蟹江敬三は、ぼくが演出家になったとき、ぼくと一緒に芝居するといって、それまでいた劇団をやめた。当時、ぼくはもちろん蓮司や蟹江も、無名の若者だった。蟹江は、テレビ出演の話がきても自分が芝居に出ようと思っていると、さっさとテレビを断ってしまうような俳優だった。金のない無名の若者にとって、テレビ出演がどれほど魅力的であったか。でも蟹江は平気だった」

 「ほくはそんな蟹江にどれほど勇気づけられたかわからない。蟹江は、ぼくとの仕事のほうを選んだのだ、初めてのぼくの演出の仕事を」

 「ぼくは蟹江や蓮司からさまざまな影響を受け、いろいろなことを教えられた」

 劇団青俳の劇団員だった蟹江は、1968年、蜷川とともに現代人劇場に合流した。青俳には木村功、岡田英次、西村晃、加藤嘉ら後の名優がキラ星の如くいた。現代人劇場の解散から続き、1972年に桜社を結成した。現代人劇場の結成の時、蜷川32歳、蟹江23歳。まさに20代からの演劇仲間であった。

 訃報を受けた蜷川のコメントが紙上に載った。

 「僕(蟹江)がテレビに出るのは、いなくなったお父さんが名乗り出るかもしれないからと話していた。お父さんに会えたかなあ」

 先の「劇的教育論」で蜷川はこうも書いていた。「青春の日に影響を与え、影響を受けた関係というものは、年をとっても、遠くにいても、なぜか懐かしい」

 69歳で旅立った蟹江、現在78歳の蜷川。「鬼平犯科帳」で小房の粂八。蟹江は実に良かった。小劇場演劇の青春を闘った演劇人の死は、やはり寂しい。

 (平成26年4月22日)

〜合言葉を作れ!〜 

 「合言葉を言え!」。例えば、前日会ったばかりの友人にだって、「何者だ? 合言葉を言え!」と私は問う時がある。

 「ヤマ」と呼べば相手は「カワ」と答えて笑い合う。「エビ」と言えば「ゾウ」ではなくて「フライ」と返す。数日前に酒を酌み交わした奴にだって「合言葉を言え!」が挨拶代わりだ。

 お粗末なジジイどもだと思えば思え。二人の意味不明のやり取りを目の当たりにした周囲の人は呆れたような、バカにしたような笑いを浮かべても平気の平左だ。

 勿論、当の二人は全てを理解し合っている間柄なのだから出来るのだ。

 そこで、合言葉を作ろうじゃないか。

 目的? その通り。振り込め詐欺防止の一手である。

 「かあさん、交通事故に巻き込まれた。ン百万円用意して!」と来れば、即座に母親は「合言葉を言え!」とやる。あるいは、電話の声に対して即座に例えば「エビ」と言って「フライ」と返さなければ、詐欺。たとえ、「フライ」と答えても次の手の合言葉を用意しておくのだ。

 「ラーメン」「ライス」、「チャーハン」「ギョウザ」、「テンプラ」「スキヤキ」。何でもいい、合言葉で敵を撃退せよ!

 (平成26年4月22日)

〜タバコのけむり@〜 

 冬場。男は劇場の椅子に着席する前にコートを脱いでくる。女は自分の席に着いてコートを脱ぐ。なぜだろう。注意深く観察すると、大半がその相違だった。

 開演間際になると、自分の席でコートなどをドサドサ、バサバサと音を立てて脱ぐなら両隣の客さんに迷惑をかけることになる。コートの袖が当たったり、女性は手荷物やらハンドバッグ類を身に付けているので、狭い通路がよけい狭くなるものだ。

 脱いだコートを手に持ちながら前を通ればそんな心配は少ない。

 しかし、女性ばかりではないのも事実。男の年寄り、若い世代にも当てはまる。

 つまり、マナーの問題だ。そして常識の有無である。この場合の常識とは、他人に迷惑をかけまいとする自覚、自己中心的な振る舞いを制御する志のこと。

 遅くとも開演15〜20分前には劇場に到着しましょうよ。当方は開場直後を目安にしている。年寄りの心配性でもあるけれど、早めに着けば安心する。ゆっくりと筋書きを読める、タバコの一服も可能になるではないか。そして、コートを脱ぎ、モバイル(携帯電話など)を電源から切れるので、ご迷惑をかけずに済む。余裕が生まれるのです。

 おっと、一番大切なことを忘れていた。トイレで用を終えられる。特に、心配な「大」の方も済ませる。便器でウンチクを傾けられるのであります。

 世の女性よ、先んずれば人を制する。コートを脱げ! 以上が観劇のマナー編。

 (平成26年2月27日)

〜寂しい渡辺えりの覚悟〜 

 来年、還暦を迎える渡辺えりは挨拶状にこう書いていた。「暗黒の時代の再来を阻止しなければと必死な日々ではありますが」。

 その一文に誘われ、1月13日、六本木のスイートベイジルで開かれた「ドラマチックコンサート」に出かけた。

 劇団300を主宰する劇作家で演出家で女優の彼女の異才ぶりは称賛もので、その歌唱力も定評があり、28歳の時には「ビューティフルコンサート」というライブを始めているほどだ。

 むっちりとした両肩を大きく露出した赤いロングドレス姿で登場した。昼に続く2回目だったがパワフルな姿勢は相変わらず。「元気にやりましょう」と右手を突き上げて会場を盛り上げ、「回転木馬」から歌い始めた。

 何度か合間にトークが入ったが、配布されたパンフレットにはこう書かれていた。

 「このところ、愛する人や、尊敬する方たちが一気に異世界に旅立たれ、寂しくて仕方がありません」。

 トークでは仲間だった故勘三郎への想いを語った。

 「テレビの『ソロモン流』という番組で(私を)正直な人です。我慢しないからね、あの人は。だから好きなんです−と勘三郎さんが言ってくれた。私はわがままなんですよ。わがままと言ってくれる人、貴重ですよね」

 「電話してくれて、飲みに行こうよ−と言われたんですが先約があって。『ああ、分かったよ、もういいよ!』っていう人なんですよ。1年経っても穴が大きすぎて…」

 このトークの後、「ありがとう」を絶唱した。演劇人のコンサートらしく、新作「赤い壁の家」の中から彼女が作詞したシャンソンの名曲やミュージカル「レ・ミゼラブル」の中の「夢破れて」などを歌い、フランス人形のような衣装にも着替えた、えり。

 「時代の空気もどんよりとして危険な方向に流れて行くのを何とかみんなで食い止めなければなりませんので本当は嘆いている時間はないんですよね?」。これもパンフレットの一文。

 勘三郎に捧げながら、保守政権の右傾化を危惧しながら、全力で今の自分の生きざまを晒した彼女は1月5日が誕生日だった。「来年、60ですよ…。去年から耳鳴り(エイジング)がしていて」という元気印の渡辺えり。老いの入口に向かったとはいえ、今年は傑作を書いてくれる予感がした。

 (平成26年1月20日)

〜さよなら、ピーター〜 

 ピーターが死んでしまった。竹邑類の訃報を知ったのは12月13日の朝刊だった。71歳。年上とは思っていたが5歳上とは。

 11月には彼の著書「呵呵大将・わが友、三島由紀夫」が郵送されていたのだ。今年は知人の悲報が例年よりも多く、また一人、楽しい演劇人を失った。

 六本木の地下1階にあったかつてのアングラシアター「自由劇場」。ピーターはここで「スーパーカムパニイ」を主宰して“菜の花飛行機シリーズ”というオリジナルミュージカルを作っていた。これが実に面白い。イキでシャレていて、ビジュアルで、愉快で、ハイテンポで。荻原流行らの俳優も育てた。公演前には必ず連絡が入り、送られてきた秋川リサとかが写ったポスター写真を大きく使って紙面に載せたものだ。

 かつて紀尾井町にあったクリスタルルームという小スペースでもピーターは演出の常連。稽古を見てくれと熱心に誘われた。ライバル紙のHと出かけては素人ながら意見を伝えたものだ。

 宝塚歌劇の振り付けでも独創的な踊りを作ったピーター。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の初演でタイトルロールのヴァイオリン弾きを演じたことを知る人も少なくなってしまった。三島が小説「月」の主人公に書いた小さな宇宙人のようで、人なつっこいあの笑顔を思い出す。夢を追い続けたピーターパン! さようなら。

 (平成25年12月26日)

〜初老3点セット〜 

 都内には当方とご同輩と思われる初老男性がウヨウヨと居る。随分と以前から発見したのがその風体。

 キャップ(特に野球帽)を被り、開襟シャツ、今頃の晩秋から初冬はジャンパー、そしてGパン(ジーンズ)、背中にはリュックサック(デーバッグ)。流行なのだろうか。当方は、しかし、キャップ、Gパン、リュックサックの初老3点セットだけはやらない、と決めている。

 粋(いき)ではないからだ。ヤボったいからだ。3点セットのご同輩をバカにしているのではない。いや、ほとんど嫌っている。

 我ら団塊世代はVAN、JUNで育った世代ではないかね。リュックサック? ヤボはやめよう。

 そんな3点セットが劇場に来たとする。客席の間を通る際、背負ったままのリュック。着席する直前にリュックを下ろし、キャップは被ったままだ。背中のリュックは後ろ向きで通れば前列の人にぶつかり、前向きなら同列の目前スレスレに入って行く。一つの挨拶もない。そんな光景は枚挙にいとまがない。

 劇場に入場した時、リュックサックを下ろし、胸元に持てばいい。キャップや帽子はすぐ取れ!

 男性に限らない。バアさんだって似たようなものだ。お荷物はできる限り少なくしろ。話し声は小声で。バカ笑いは聞きたくない。ああ、短気は損気というけれど、書いていてイライラ、ムカムカしてきた。

 結論−。ああ、年はとりたくないものだ。短気になるばかりだもの。

 (平成25年11月13日)

〜蹴るな!取れ!消せ!〜 

 我が意を得たり−と手を叩いたのがちょいと古いが、情報誌「メトロガイド」7月号だ。小俣雅子さんのコラム「おしゃべりがとまらない!」で戦友を得た気分になった。

 上映前に「どんなに足が長くても、前の席を蹴らなぁ〜い」という歌が流れる映画館があるそうだ。携帯電話をオフにすること、飲食の禁止などをアナウンスした後に流すという。

 以前は、上映中に作品の内容や出演者について質問し合う夫婦たちに注意事項をアナウンスして欲しかったという。文章の最後に、周りの人たちが目配せをしたり、咳払いで注意を喚起しても全く気付く様子がないのが残念と書いてあった。

 同感!異議なし!だ。

 芝居の劇場でも同様である。背もたれを蹴る観客、演目の内容はおろか、世間話に花を咲かせるおばちゃん。上演前に流すアナウンスに加えて欲しいと常々願っていた事項が、実は一つある。

 「帽子を取れ!」。大劇場から小劇場まで帽子をかぶったままで観劇する輩が居る。老若男女を問わず、数人は必ず居るのだ。

 マナーという以前の常識の欠如のばか者たち。ついでに書けば、オフにしない携帯電話による着メロ、オフを突如、オンにしてスマートフォンを見続けるばか者。
 「前の方のご迷惑になりますので、帽子は必ずお取りください」といったアナウンスをする劇場は三越劇場、国立劇場くらいで極少ない。全ての劇場で「蹴るな!」、「取れ!」、「消せ!」を実行せよ。常識とは、他人を思いやる心だぜ。怒りはもう止まらない。

 (平成25年11月12日)

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 ▼大島幸久メモ 東京生まれ。団塊の世代。ジャイアンツ情報満載のスポーツ新聞(スポーツ報知)で演劇を長く取材。演劇ジャーナリストに生まれ変わったばかり。現代演劇、新劇、宝塚歌劇、ミュージカル、歌舞伎、日本舞踊。何でも見ます。著書には「新・東海道五十三次」「それでも俳優になりたい」。鶴屋南北戯曲賞、芸術祭などの選考委員長を歴任。毎日が劇場通い。

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